1953年北海道生まれ
住所:流山市向小金1丁目447-149
教育福祉常任委員会委員 議会報特別委員会委員
電話:04-7148-6871
日本共産党流山東支部支部長など歴任。
2005年衆議院総選挙、06年7区補欠選挙に立候補。
現在、党東葛地区委員会常任。
活動区域:向小金1〜3、松ヶ丘1〜6、野々下1〜4、長崎1〜2、前ヶ崎、名都借、古間木、駒木の一部(すわの森団地、小田急団地、東映団地)
徳増議員の活動
My Message
◆2期目に向けてのごあいさつ 2011年2月1日
みなさんのお力で議会へ送っていただき、ぐりーんバスを野々下、向小金コースの実現にこぎつけました。市民経済委員の時は、自治会等の「ごみ袋有料化反対」の声にこたえて、やめさせてきました。いま井崎市長のもとで、市立幼稚園に続き、公立名都借・長崎保育所の廃止計画が・・・。市政の歴史になかったことです。
私は、公立保育所の廃止を許さず、どの子も幸せに育つ流山市をめざし、全力を尽くします。ご支援を心からお願いいたします。
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●自己紹介 2007年5月21日
1953年1月5生まれ、現在54歳。北海道の美幌町で生まれました。
父は母の実家の仕事を手伝うため(魚の仲買人)記憶のない幼少時に小樽へ、その後、私たち一家は魚屋を営むため小学校5年生のときに札幌に転居。しかし、スーパーの進出でうまくいかず、牛乳店、食堂など経営しました。
牛乳店経営時は、私も一つの地域を受け持ち、朝4時起きで、配達、地域の集金など頑張っていました。(そのころ兄は体が弱くハードな仕事はさせられず、妹は小学校3年生で幼すぎました。)
子どもでしたから集金のとき、お客さんから「偉いわねえ」といってお菓子などをいただいたことが、うれしかったこととして記憶に残っています。つらかったことは、北海道ですから冬は長いソリに箱を載せるのですが、まだ根雪になっていないときはリヤカーでの配達です。轍(わだち)にはまってしまい押せども引けどもびくともしない、手は氷のようになって凍えてくる・・・そのときです。帰りがあまりにも遅いのを心配して母が迎えに来てくれたのでした。氷のようになった私の手を、胸元を開いて肌で温めてくれたのです。緊張が解けたのと、母の温もりがうれしくて、涙が止めどもなく流れてきました。その時のことを昨日のように思い出します。その母も16年前に他界しました。
その後、生活に行き詰った私たち一家は、東京の叔母を頼って上京したのでした。私は専門学校を1年で中退しての上京で、一家で住むところが見つかるまで、そして仕事が見つかるまで5人家族は4箇所でバラバラに暮らしていた時期がありました
その後、私たちは、普通の家族のように5人で暮らすことができるようになりました。しかし、生活は楽ではありませんでした。私と妹は進学をあきらめ家を支えるため、そして兄に大学に進学してもらいたいと働きました。
そのころ友人から誘われて民主青年同盟に加盟し、その後、子育て真っ最中のとき、日本共産党の議員から入党の誘いを受け、庶民の味方は日本共産党だと確信していましたので迷わず入党しました。
流山に転居したときは長男が中学1年生でした。そのころ中学校では、男子生徒の頭髪は丸刈りで、とてもいやがっていました。私は新日本婦人の会とともに署名運動をし、丸刈り押しつけをやめさせました。また、国道6号線に右折レーン設置等、地域を良くする運動にかかわってきました。
1991年に日本共産党東葛地区委員会の専従となり、2005年の総選挙で千葉7区から立候補、2006年の衆院7区補欠選挙に立候補しました。その後、流山市の市議会議員選挙に立候補を要請され、今度は草の根から政治を変えたいとの思いで決意したのです。
選挙中から、「当選したらやってね!」と、地域のグランドゴルフの愛好会のみなさんから、やまびこ公園に清掃用具を入れる物置を置くスペースを貸してほしいといわれ、さっそく会の方たちとご一緒に市のみどりの課と交渉し、実現することができました。いま寄せられているたくさんのご要望を、一つひとつ実現するために、力いっぱい頑張ります。